銀山の神、世界遺産の象徴

佐毘賣山神社は鉱山の守り神です。
日本の鉱山には守り神として、また鉱山の繁栄を祈願する神社が必ずあります。佐毘賣山神社は、銀精錬の神である金山彦命が祀る石見銀山の守り神で、1434年(永享6年)から鎮座し、世界遺産石見銀山のかつての繁栄を示す象徴です。

龍源寺間歩

山神(さんじん)さん

石見銀山の地元では、親しみを込めて「山神(さんじん)さん」と呼んでおり、歴史的には銀山を支配した戦国大名の大内氏、毛利氏により、保護され、敬われてきました。
江戸時代に入ると幕府領(天領)であったことから、徳川家康の重臣であった大久保長安が江戸幕府の初代奉行となって以来、歴代の奉行、代官、同じく鉱山の経営を行った多くの山師や、その下で働く銀の採掘・製錬に当たった者たちによって厚く、また日々崇敬されてきました。

佐毘賣山神社正面

「さひめ」は金属のこと?

さひめの語源はいくつかあります。女神を祀る「姫山神社」の姫山に接頭語「さ」がついたものであるとの説もありますが、各地の佐比売山神社の祭神が金山彦命であり、この神は金属精錬の神であることから、「さひ=さび=鉄≒金属」ではないかというのも納得できます。
なお、石見銀山にある佐毘売山神社は直接は石見の西、現在の益田市にある同名の神社から永享6年(1434)に勧請したものです。
なお、神社には別に3人の女神が祀られており、それが佐(三)姫山神社の初源の名前とも言われています。

佐毘賣山神社斜め

盛山を祈願

銀山が繁栄すればその繁栄が永かれと祈祷し、銀の産出が減れば繁盛・大盛を祈りました。
「石見銀山佐毘賣山神社縁起」(『新修島根県史』所収)などによれば、江戸時代には定期的なものとして、正月11日には「山入式祭」(大盛祈願)、9月28日には祭礼が行われています。

大森の町

歌も交えてにぎやかに

正月の大盛祈願は早朝、神職が戦国時代のある時期に銀の積み出し港であった鞆ケ浦に赴き、そこから「塩鯖、塩水(海水)、海藻」を持ち帰って神前に供え、海藻を介して酒を社殿の扉に注ぎかける(扉がクサルと,鏈(くさり))=鉱石が多く出る)という独自の所作を行い、また神社と不可分であった神宮寺(古義真言宗)の僧侶を迎えるなどし、最盛期をはるかに過ぎた天保15年( )でも役人、山師、堀子の86人が参加し五斗樽入りのお神酒を振る舞い、「サンヤ節」を歌って賑やかであったとのことです。
そのほか毎月3回(1日、11日、28日)に定期的な祈願を行ったと記録があります。

鞆ヶ浦

歌舞音曲も

鉱山の中では民俗芸能、歌などはあまり発達しません。「石見銀山巻き上げ節」は例外的な労働の歌でしょう。
祭りに伴う歌舞音曲は外部から招いて行うのが一般的です。石見銀山の周辺には石見神楽や田植え囃子など、豊かな民俗芸能がたくさんあり、明治以降、昭和に至るまでそういった芸能や民謡など招いたと伝わっていますので、鉱山の繁栄の神として、職種・身分を問わず日々敬われていたのです。

清水谷の梅

今も残る繁栄の面影

湧水を引いた手水は立派な彫り物の石の亀口から絶えることなく、神事を司る社家も3家あり、神輿も大型、さらに氏神である大森の城上神社に向け鉱山の側から寄進した神輿も大型・豪華で今も使われています。
鉱石がご神体だとも言われ、以前には抱えきれない大きな鉱石が拝殿脇に置かれていました。「あんな鉱石がたくさん取れたら」と念じ、さすったりしながら、日々拝礼していたのかもしれません。
佐毘売山神社は銀山に関わる全ての者にとって繁栄祈願の社でした。

亀石

大盛の祈願

鉱山の大盛を祈願するのはこの佐毘売山神社の他、江戸時代には曹洞宗「龍昌寺」、大森代官所直属の真言宗「観世音寺」などがあります。
それ以外の寺院は様々な宗派を網羅しており、中にはキリシタン墓と思われる墓石のある寺院跡もあります。鉱山は技術者と労働力を集める必要があり、広く、多様な信仰を持つ者が集まってきました。繁栄は神社に、信仰はお寺にといったところでしょうか。

観世音寺

鉱山最大の社殿

その中にあって、佐毘売山神社は柵によって囲まれ、管理された柵内(さくのうち)にあって最大の神社であり、社殿は次第に大きく、また整い、鉱山の神社として現存する中では国内最大級ともいえる社殿となっています。
拝殿は二層構造となっており、外観は二階建て、城上神社も同じです。拝殿と本殿が一体的に続く権現造りの構造になっています。拝殿は瓦葺き、本殿は銅板葺きです。
現在の社殿は1819年(文政2)に火災後の再建となったものを基本に、1971年(昭和46)まで何度か修理されてきました。毛利氏や奉行、代官が発起して社殿を建てた棟札などが残されています。

秋の佐毘賣山神社

藤田組の銅山へ、そして休(閉)山

明治維新となり、石見銀山はあまりに衰退していたので他の大きな幕府直営の鉱山と違い官営鉱山となりませんでした。
その後(明治20年)から藤田組(藤田観光の親会社。後の同和鉱業、現DOWAホールディングス)が操業し、銅山「大森鉱山」として一時期栄えましたが、1923年(大正12)に事実上閉山し、鉱山で働いていた方は同じ会社の柵原鉱山(岡山県)に赴くなどし、銀山の住民は急激に減っていきました。

永久鉱山

23戸で懸命に

以降、大森町の銀山地区のみ(現在23世帯ほど)が懸命に支えてきましたが、鉱山の神は地域の氏神と違うこともあり、神社の社家も他出し、宮司も兼務となるなど、維持が極めて困難になっています。鉱山の神様は鉱山で働き、関わる人が支え、また鉱山で大きな利益があった時の豪勢な社殿なので支えきれないのです。これは全国の他の鉱山でも同じで、社殿が残っているほうが稀です。

城上神社

現在の社殿

でも地元の皆さんは石見銀山遺跡が1969年(昭和44)に国指定文化財(史跡)になってすぐの1971年に建物の大修理を行い、以降、拝殿の屋根替えを2度、舞殿(神楽殿)の修理を行ってきましたが、神社の所有地や収入もなく、またこれも懸命に支えてこられた宮司もその限界となり、昭和30年代からは常勤の宮司も不在となり、兼務の宮司と僅かな氏子によって何とか例祭だけが執り行われてきました。
近年はさらに主だった氏子も亡くなり、建物の維持や復興にはとても手が回らない状況が続いていました。

賑わう町並み

世界遺産の象徴として

「石見銀山遺跡とその文化的景観」が世界遺産に登録されたのを機として、その象徴である佐毘売山神社を広く守り支えようと「佐毘売山神社を守る会」が結成されました。
地元住民有志と主に東京周辺に在住する石見銀山出身者(関東石見銀山会有志)で2008年11月に結成し、「佐毘売山神社」の歴史や文化を尊び、その価値に対する認識を深め、その保護・保全に協力して取り組み、将来に向って継承して行くことを目的としています。


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